雛は大きく立派な門を見上げ、立ち尽くしていた。
門に続く左右の壁はどこまでも続いており、終わりが見えないほどだった。
門の向こうには、立派なお屋敷が見える。紙に記されていた招集場所はここのはずだ。
「……緊張してきた」
勢いでこんな所まで来てしまったけど、本当に女だとバレないだろうか。
急に不安が押し寄せてくる。雛は大きく深呼吸した。
「邪魔だ」
突然、背後から声が聞こえ振り返る。
一人の男が雛を見下ろしていた。雛の顔を見たその男は、わずかに反応する。
「君は……」
そうつぶやき雛をじっと見つめてくる。
雛はこの男を知らなかった。少し長く伸びた黒髪から、覗く瞳。
端正な顔立ちに見つめられ、雛は柄にもなくドキッとしてしまう。「どこかで、お会いしましたか?」
雛が男を見つめ返し問いかけると、男は視線を逸らした。
「いや」
それだけ言うと、男は門の中へ入っていく。
今の雛は男装をしている。
この恰好を誰かに見られたことは一度もない。 もし女の雛を知っていたなら何か言ってくるはずだ。知り合いに似た人でも居たのかもしれない、あまり気にすることもないだろう。
そう思い直した雛は気合いを入れ直し、男のあとに続き門をくぐった。 門の中に入ると、それはそれは広大な土地が広がっていた。 いったいお屋敷何個分なんだ? と雛は目を白黒させる。ここで訓練をするのだろうか、広大な土地のほとんどが土だけの原っぱだった。
残り少しの間に、石畳やら池やら、植木が並んでいる。その奥に立派なお屋敷があった。周りを見渡せばたくさんの男たちが既に集まっていた。
いかにも剣の腕に自信がありそうな剣士風な男、筋肉が強調された屈強そうな戦闘モードの男性、力はなさそうだが頭脳戦で活躍しそうな知的な雰囲気をもつ者。 それぞれが自分に自信と誇りを持っているような表情で、そこに立っている。おそらく、この中で一番華奢で小柄なのは雛だった。
雛を見た男たちは目を丸くする。
こんな女みたいな奴がこんな所に来てどうするんだ、という声が聞こえてきそうだ。そんなことは覚悟の上だ。
雛は男たちの視線を気にすることなく堂々と歩く。
そして、唐突にそれは始まった。
広場に設置された壇上に、一人の男が上がった。男は集まった者たちに向かって叫ぶ。
「皆、よく集まってくれた。私はここを任されている伊藤(いとう)だ。
これから諸君には試合をしてもらう。トーナメント戦で勝ち抜いた上位六人が最終的に合格者ということになる。 お互い実力を出し切って、本気で戦ってほしい。 刀は真剣だが、刃が斬れないように細工してある。相手を殺してしまった場合は即失格とする。 だが、そうならないように私たちが見張るので心配しなくていい。 試合は今から三十分後に行う。準備して待機するように。それでは健闘を祈る」それだけ言うと、その男は壇上から降り姿を消した。
雛よりずっと大人で、顔つきといい体格といい、優れている人物のように思えた。
そのしっかりした物言いからも、彼がこの組織をこれからまとめていく人物なのではないかと予想させる。雛が思案していると、周りが騒ぎ始めた。
先ほどの説明を聞いた男たちが、何やら不満や愚痴を言っているらしかった。「なんだよ、ここに来ればそれでいいと思ってたのによ」
「たった六人? 少なすぎないか?」 「金はもらえるんだろうな」どうもお金目的で集まった輩が多いようだ。
他にも、権力や出世目的も多そうだが、雛のように本当に世を憂いて世の中を変えたいという思いでここへ来た者は案外少なそうだ。「なんだよ、おまえらそんな小せぇこと言ってんのか!」
いつの間にか、気づけば雛の隣に男が立っていた。
ド派手なオレンジ色の長髪。
着物をだらしなく羽織り、着物の前ははだけ胸元が見えている。 態度はすごくデカかく、乱暴な物言いだ。本当に剣客なのだろうか。
雛は眉を潜め、その人物に注目していると、男は愚痴り合う男たちに向かって話しかけた。
「今の世の中に不満があるから来たんだろ?
自分の力で変えてやろうとか思わないのか? 自分が駆け上がっていけば、金なんてあとからついてくるだろっ」男の言葉に、三人は顔を見合わせると可笑しそうに笑った。
「おまえ、バカだろ。ここに来る連中は全国から集められた猛者たちだぜ。その中で、たった六人の中に入れるわけねぇだろ。
俺は金さえ手に入れば、それでよかったんだ」一人の男がそう言うと、残りの二人も頷く。
それを見た男は、大きくため息をついた。「まったく情けねぇ、だからこの国はいつまで経っても良くならないんだ。
俺は行くぜ! 六人の中に選ばれて、この国を変えてやるんだ。 俺は皆が笑っていられる世をつくる! 覚えておけ、俺は高橋(たかはし)宇随(うずい)様だ!」雛は、はっとしたように宇随を見つめる。
同じだ、ここにも私と同じ信念を持つ人がいた。あれから数日後。新たな門出の日が、訪れた。 今日は、私と神威の祝言の日。 まだ春浅い空の下、朝から穏やかな陽ざしが庭を照らしている。 白無垢に袖を通し、鏡の前で髪を整えながら、私は自分の姿に少し戸惑っていた。 真っ白な花嫁衣装に、髪には綺麗な簪。この簪は神威からもらったものだ。 そして、綺麗に化粧された顔に、真っ赤な口紅。 自分ということを忘れて、ほうっと見惚れてしまう。 ――これが、自分。 「とてもお似合いですよ、雛さん」 ふと振り向けば、支度を手伝ってくれていた楓太が嬉しそうな顔で微笑んでいる。 「……ありがとう」 なんだか、恥ずかしいやら、むずがゆいやら。 鏡に映る自分はとてもじゃないけど普段の私からは想像できない。 とても綺麗な花嫁が、そこにいた。 準備を終えた私は庭へと向かう。 屯所の庭の一角には、紅白の幕が張られ、簡素な式台が用意されていた。 若手の隊士たちや仲間たちが左右に並び、静かに見守る中、神威は式台の前に立って私を待っている。 彼の瞳が私を捉えると、その顔がゆるやかに緩んだ。 その笑みを見た瞬間、胸が熱くなる。 私は、傍で待っていた父・雄二の腕を取ると、そのままゆっくりと歩き出した。 白無垢の袖が風に揺れ、足元にひらりと花びらが舞い落ちる。 神威の前までやってくると、父がぽつりとつぶやいた。 「……雛、幸せになれよ」 振り向くと、父は目を赤くしながら、じっとこちらを見ていた。 その瞳にはうっすらと涙が滲む。 私は小さく頷き、父の手からそっと離れた。 そして、神威の手が私の手を掴む。 その手のひらから彼の熱が伝わってきて、思わず指先に力がこもった。 神威は私の耳元で、誰にも聞こえないように囁く。 「……雛、綺麗だよ。 愛してる。 これからはずっと一緒だ、どんなときも」 その低い声が、私の胸の奥まで優しく響く。 胸がきゅっとなり、言葉が出てこない。 ただ目を閉じて、神威の声をそっと心に刻みこむ。 この人と、これからを生きていく。 迷いながら、つまずきながら。それでも二人で。 人々のため、そして神威のため。 ――剣と共に。 その決意を胸に、そっと微笑んだ。 そのとき、風がざあっと吹き、祝福の声が飛び交った
夕方。 太陽が沈みかけ、赤い光が襖を透かして部屋を照らす。 そのやわらかな明かりに包まれながら、私は小さくため息をついた。 刀の手入れをしながら、物思いにふける。 あの事件から一日が経ち、仲間たちの言葉が今も胸の中で繰り返されていた。 私は、今のままでいいのかな。 剣を捨てられない、それでも、神威の隣にいたい。 ――もし、それでいいと言ってくれるなら。 その想いが、私の中で大きくなっていた。 そのとき、襖の向こうから神威の声がした。「雛、入ってもいいか」 たった今、想っていた相手が現れ、胸が高鳴る。 胸の高鳴りを落ち着けながら、私は答えた。「……うん」 静かに襖が開き、神威が入ってくる。 神威の視線が私の手元にある刀へと注がれる。 その瞳がわずかに揺れたあと、私の顔へと移った。「昨日のこと、聞いたよ。怪我がなくてよかった……」 優しい声音と共に、神威は私の隣へ腰を下ろした。 触れ合いそうな距離に彼がいて、胸がざわめく。 今しかない。 ――想いを伝えよう。 私は一度深呼吸すると、少し俯きながら、搾り出すように言った。「私……やっぱり、剣を捨てることができない。これが、私だから。 もしあなたが許してくれるなら……」 じっと神威を見つめる。 彼は目を細め、優しい笑みを浮かべた。「それでいい。俺は……そのままの雛が好きだよ。 最近、雛の様子がおかしいのに気づいていた。ずっと悩ませてしまって、ごめん」 神威が軽く頭を下げる。 じわっと涙が出そうになった。 今まで我慢していた感情が溢れ出しそう。 彼は、私がずっと悩んでいることに気づいていた。理解しようとしてくれていたんだ。 そのことに、胸が満たされていく。 私が俯き黙り込むと
事件のあと、 私は気持ちを整理したくて、屯所の裏手へと足を向けた。 人気のない小道をひとり歩く。 すぐそばの竹林が、わずかな風にざわめいていた。 その音が、心のざわめきを映しているようで――。 私はそっと視線を落とす。 ひとりで考えたかった。 手のひらには、まだ剣の感触が残っている。 助けたあの子の声も、しっかり胸に残っていた。 誰も傷つけずに済んだとはいえ、刀を抜いたあの瞬間、心のどこかで迷いがあった。 一瞬の迷い…… けれど、体はそれさえも凌駕し、先に動いた。 やっぱり私は、普通の女性としてはもう生きられない。 きっと……。 ふと下を向いた、そのときだった。「よっ、雛じゃん。どうした? そんなくらい顔して」 背後から明るい声がした。 振り返ると、宇随が手を振りながらこちらへ近づいてくる。 その横には、楓太の姿もあった。「……ふたりとも、見回り中?」 私が尋ねると、楓太が笑顔で頷いた。「ええ。でも、今日も町は平和ですよ。先ほどの事件以外は」 爽やかに笑う楓太の横で、宇随がにかっと笑う。「町の連中に話、聞いたぜ」 ニコニコ顔の宇随が私に近づき、指でおでこを小突いた。「へへっ、相変わらず格好良かったらしいじゃん? ま、俺たちが出るまでもなかったってわけだ」 そう言われ、私は苦笑し、小さく首を振る。「格好良いなんて、そんなんじゃない。ただ、動いてしまっただけ」「その“動いてしまった”ってのが、雛なんだよ」 宇随の言葉に、はっとする。 それが……私。 呆然と宇随を見つめると、彼は優しい笑みを浮かべてうなずいた。「雛はさ、頭で考えるより前に、体が動くタイプだろ?」 そう言われ、私はまた落ち込んだ。「……それが、いいことだとは限らないけど」
翌朝、私は一人で稽古場に立っていた。 木刀を握る手に力が入らず、いつも通りの動きがどこかぎこちない。 神威の想いも伝わってきたし。 言葉だってあんなにもやさしかったのに。 それを受け止めきれていない自分が、情けなく思えた。「はあ、ダメだ。もっと強くならなきゃ……」 誰に聞かせるでもなく、小さくつぶやく。 ふと、外から子どもたちの笑い声が聞こえてきた。 今日も隊の誰かが、町の子たちに剣の稽古をつけているのだろう。 姿は見えないけれど、楽しげな声に心を和ませる。 こんな暮らしが、私の望みだった。 こんな幸せな日常を、ずっと守っていきたい……そう思っていた。 私の力で、この剣で。 そのとき、遠くの方から悲鳴が聞こえた。「きゃあっ! 誰か、助けて――!」 私は木刀を置き、刀を手にして飛び出す。 考えるより先に体が動いていた。 屯所の門をくぐり、辺りを見渡す。 遠くの方に人だかりが見えた。 それに向かって全速力で駆けていく。 人混みをすり抜けていき、人だかりの中心を覗きこむ。 ひとりの男が刃物を振り回し、近くにいた子どもを人質に取っていた。 周囲の大人たちは恐怖で動けず、子どもは泣きじゃくっている。「近づくな! 動いたら、このガキがどうなっても知らねぇぞ!」 男はすごく興奮しているようだ。 変に刺激を与えない方がいい。 私は静かに歩を進め、男の動きを見極めながら声をかける。 「何をしている? ……その子を放せ」 そう言うと、男はいきり立ったように怒鳴り散らす。「うるせえ! 偉そうに説教たれてんじゃねぇ! おまえらに、俺の気持ちがわかるか!」 その瞬間、男が刃を振り上げた。 私は迷わず踏み込み、抜刀。 地を蹴った瞬間、空気が裂けるような音と共に、一瞬で男の懐へと潜り込む。
夜の屯所は、昼の喧騒が嘘のように静まり返っていた。 部屋の行灯(あんどん)の灯りが揺れ、障子にやわらかな影を落としている。 外からは虫の音が微かに聞こえ、心にそっと寄り添ってくれるようだった。 私は、部屋の隅でひとり、膝を抱えていた。 あのとき神威に言ってしまった言葉が、胸の奥で繰り返される。「今の私のまま、あなたの妻になってもいいのかな」 言ってしまったあと、少しだけ後悔した。 それはずっと胸にしまっていた迷いで、彼に見せることを躊躇っていたから。 普通の女の子とは違う私。 私は神威に、何を与えてあげられるのだろう。 彼は何を望んでいるのだろう。 女として何もしてあげられない私と一緒になって、彼は幸せになれるのだろうか。 ここ最近、悩みはどんどん増すばかりだった。 神威や仲間たちと結婚の話をするたびに、祝言の準備が進むたびに、私の心に影が落ちる。 神威は優しい。誰よりも私のことを思ってくれる。 だから、余計に心配だった。 我慢させているのではないかと。 本当は私に、普通のおなごとして生きてほしいと思っているのでは……。 もし、「そのままでいい」と言ってくれなかったら? もし、私に剣を捨てるように求めてきたら――? そんな未来ばかりを想像してしまう。 ふと、人の気配がした。 襖がすっと開く音がして、私は顔を上げる。 神威が、そっと顔をのぞかせていた。「雛、起きてたか」 いつもの優しい眼差しと、目が合う。「うん……眠れなくて」 なんだか落ち着かなくて、俯き加減に小さく頷く。 視線を上げることができず、手をぎゅっと握りしめた。 すると、神威がそっと部屋に入ってくる。 彼は、何も言わずに私の隣に腰を下ろした。 沈黙がふたりの間に沈む。「昼間の
あれから、少しばかり月日がたち、春がやってきた。 屯所も賑やかになり、あちらこちらから子どもの声が聞こえてくる。 あたたかな風が、庭に咲く草花をそっと揺らし、 日差しはやわらかく降り注ぎ、あたりを優しく照らしていた。「……はっ!」 私は、今日も剣を振るう。 屯所にある稽古場には、私ひとりだけ。 普段はたくさんの仲間や門下生、子どもたちで賑わっている。 今日は天気がいいので、外で稽古をしているようだった。 外の様子をうかがうと、神威と宇随が子どもたちに稽古をつけていた。 二人とも楽しそう。 穏やかな笑みや笑い声が飛び交っている。 とくに、宇随は子どもたちから人気がある。 今もたくさんの子どもたちに囲まれ、何やらからかわれているらしく、楽しげな声が響いていた。 まあ、あの明るさや気さくさがいいんだろうな。 逃げる宇随に、追う子どもたち。そして見守る神威。 ふと、神威に視線を向ける。その姿に胸が高鳴った。 私の愛しい人……。 見つめていると、あたたかな気持ちが湧いてくる。 しかし、そのやわらかな想いと同時に、心にそっと影が差す。 最近、ずっと悩んでいることがある。 私はそっと、自分の手にある木刀を見つめた。 心が落ち着かない。 剣の振り方一つひとつに、迷いが映っている気さえする。 何度も構え直すたびに、その心の揺れが形になっていくようで、苦しくなった。 剣は、私にとって武器であり、心の拠りどころでもある。 幼い頃から、いつも一緒で、寄り添ってくれる存在だった。 剣を握っているときは、どこまでも強くなれる。……そんな気がした。 でも、女としての幸せを考えたとき――剣は、どうすればいいのだろう。 剣を握ったまま、戦いに身を投じながら。 愛する人の側に。隣に寄り添い、生きることは許されるのだろうか。 それを望